
済州島の歴史 戦いの島から平和の島へ
美しい海と豊かな自然で知られる済州島は、今では韓国を代表する観光地の一つだ。しかし、第二次世界大戦後の島は、貧困や政治的な対立、そして大きな犠牲を経験した。人々はその記憶と向き合いながら島を一つ一つ再建し、現在の「平和の島」へと歩んできた。
1945年、日本の敗戦によって朝鮮半島は日本の植民地支配から解放された。しかし、済州島の人々に平和な暮らしが戻ったわけではなかった。戦時中に日本へ渡って働いていた済州島出身者の多くが帰郷し、人口が急増した一方で、仕事や食料、生活物資は不足していた。さらに、朝鮮半島ではアメリカとソ連の対立を背景に南北の分断が進み、政治的な対立も激しくなった。
武力衝突と「四・三事件」の悲劇
1947年3月、済州島で警察がデモの参加者や周辺の住民に発砲し、6人が死亡した。この事件への抗議をきっかけに大規模なストライキが起こった。これを受けて警察や行政などの当局は、政府に対抗する姿勢を取る民衆への取り締まりを強め、左派勢力に対する逮捕や拷問も行った。そして1948年4月3日、武装した左派勢力が警察署などを襲撃したことをきっかけに、「済州島四・三事件」が始まった。軍や警察による鎮圧と武装勢力との戦いは長期化し、約3万人の住民が犠牲になった。村が焼かれ、山間部では避難生活を強いられる住民もいた。農業や漁業も大きな打撃を受け、食料を得ることさえ難しい状況となった。
1950年に朝鮮戦争が始まると、済州島には朝鮮半島各地から避難してきた人々が集まり、再び厳しい生活を強いられた。四・三事件の関係者やその家族は社会的な偏見や監視に苦しみ、朝鮮戦争が終わった後も事件について自由に語ることは長く難しかったという。
戦後復興と「平和の島」への歩み
一方、戦後の済州島では観光を中心とした経済発展が進められ、1991年には済州島開発特別法が制定された。この法律は、観光基盤を整えるだけでなく、自然や文化を守り、農業・漁業などを育て、島民の生活を向上させることを目的としたものだ。
2000年になると、四・三事件の記憶を正面から見つめ直す動きが起こり、「済州四・三事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法(四・三特別法)」が制定された。四・三事件から半世紀以上経ってから、事件の真相を明らかにし、犠牲者と遺族の名誉を回復するための制度が整えられた。そして2014年には、4月3日が国家記念日となった。
2005年、韓国政府は済州島を「世界平和の島」に指定した。貧しさや分断、暴力によって傷ついた人々の記憶に向き合い、犠牲者の名誉を回復し、自然や暮らしを守りながら地域を立て直していく。その積み重ねの先に、現在の平和の島としての済州島がある。
(写真はイメージ)

