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湯川秀樹『旅人』 未知の世界を探求する物理学者の葛藤

本書は日本で最初にノーベル書を受賞した湯川秀樹(1907-1932)の自伝で、その業績である中間子論を発表するまでの半生を振り返ったものだ。その受賞は、敗戦に打ちひしがれた日本国民を力づけるものだった。

著者は地質学者・小川琢治の三男。湯川姓は結婚して湯川家の養子になったときに変更したものだ。姉2人、男兄弟5人という兄弟の多い環境で育ちながら、内向的な性格を深めていく。小学校でも友だちを多くは作らなかったが、算数だけは得意科目で、小学校の上級で等差数列の総和の公式を自力で思いついたこともあった。

父も養子であり、兄弟は母方の祖父から漢籍の素養を学ぶ。著者はやがては儒学よりも老荘の思想に惹かれていくようになる。老荘思想は自然主義的であり宿命論的だが、一種の徹底した合理主義的な考え方があり、それが小さいときから中途半端なものの考え方に満足できない自分に合ったと語っている。

第三高等学校に通うようになって興味が数学から物理学に移っていく。ライへの『量子論』に出会い、新しい学問を知る。高校の物理の学力では理解することが困難だったが、それまでに読んだどの書物よりも面白く、人生を通じて一冊の書物からこれほど大きな刺激と激励を受けたことはなかったという。プランク『力学』を読んで、量子論創始者であるプランクの透徹した論理が好きになり、量子論にも余計に魅力を感じるようになる。

京都大学に進学し、物理学の研究者となる道以外の全てが消え失せる。新興の量子力学は急速に生長し、自分もその進歩に貢献できるのではないかと夢を抱く。また、シュレーディンガーの波動力学が登場してそのとりこになる。3年生になって理論物理学の研究室に朝永振一郎らと所属する。

大学卒業後は無給の副手という資格で研究を続ける。無口で研究室へ出かけても一日中誰とも話さず論文ばかり読んでいた。折角書いた論文をフェルミに先を越されてがっかりしたこともあった。

親同士が決めた縁談がまとまり、湯川スミと結婚。同じ頃に講師として量子力学の講義を始めるようになった。環境が変わるとともに一つの考えに執着する頑固さ、偏狭さから解放されて、今までなかった積極性、行動性がだんだん現れてくるようになった。やがて新たに大阪に設立された総合大学、大阪大学の理学部物理学教室に加わるようになる。

著者がこのころ悩んでいた問題は、原子核を組み立てている陽子や中性子といった素粒子がどのような力で結びついているかということだった。力を場と考えると必ずそれに付随する粒子の存在を考えないといけない。今まで知られていた電子や光子をそれに当てはめても矛盾しない理論を組み立てることが難しい。ところが、原子核のベータ―崩壊の際に中性子が陽子に変わって電子が飛び出すだけでなく、それまで知られていなかった中性微子(ニュートリノ)も関与していることが明らかになった。著者はそこから着想を得て、核力の場に付随する粒子を既知の粒子から探すのではなく、未知の粒子としてその性質を求めようとした。核力は非常に短い距離でしか働かないので、それに付随する新粒子は逆比例する大きな質量を持つことになる。計算すると電子の200倍程度という大きな質量で、今までの加速器では得ることができず、宇宙線の中なら見つけられるかもしれないというものだった。

中間子論の論文を発表したところで本書は終わる。その時に著者は27歳であり、本書が記されたのは50歳のころである。理論が実験で検証されたことやその後の反響などは一切書かれていない。あとがきに、「いちずに勉強していた時代の私が無性に懐かしく、これより先の勉強以外のことに時間を取られていく自分が悲しくなってきそうだ」とある。

著者は内向的な自分の半生を徹底的に振り返った。父母のことから始めて、時には自分自身の直接の体験ではない母や妻から聞いた話も挿入している。その文章が著者の少年期から青年期までの孤独さを愛し、これだと思う道を進みながらも葛藤する内面を浮き彫りにする。

未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者だと著者は言う。仮に目的地に到達することができてその後にずいぶん回り道をしたものだと思ったとしても、最初に道を切り開いて目的地までたどり着くこと自体が困難なことなのだ。研究者にとってはそうだし、自分の人生を歩く人にとってもそうだ。何かを成そうとしながらも、何も成しえていない時の苛立ちややるせなさも本書から伝わってくる。それでも歩き続ける旅人が目的地に至るのだ。

『旅人 ある物理学者の回想』

著者:湯川秀樹

発行:朝日新聞社(1958年 原著)

(冒頭の写真はイメージ)

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