
旧日立航空機立川工場変電所〜第二次世界大戦の傷跡を今に伝える
東京の東側、多摩地域の北部に位置する東大和市。西武拝島線または多摩都市モノレール線の玉川上水駅を降りてしばらく歩くと、東京都立東大和南公園がある。公園の敷地の左手にあるのが、第二次世界大戦の戦災建造物の旧日立航空機立川工場変電所だ。
「西の原爆ドーム、東の変電所」と称されることもある、この旧変電所の正面壁には、1945年当時のアメリカ軍戦闘機から受けた弾痕が数多く残っている。中には弾が厚い壁を貫通している箇所もあり、銃撃の凄まじさを現在まで伝えてきた。


旧日立航空機立川工場は1938年に現在の玉川上水駅前一帯に、航空機のエンジンを製造する軍需工場として建設された。工場には、ピーク時は1万3000人以上が勤務していた。工場の一つの施設としての変電所は、高圧線で送られてきた電気の圧力を下げて各工場へ送る役割を果たしたという。
現在、旧変電所へ続くマンションが立ち並ぶ駅前の通りや、広大な敷地をもつ東大和南公園一帯はかつて軍需工場で、現在の西武拝島線の小川駅から玉川上水駅間は、旧日立航空機の工場への引き込み線が元になっているという。

変電所を含む一帯の工場は、太平洋戦争末期の1945年2月17日、4月19日、4月24日と3回の空襲を受け、従業員や動員された学生、周辺住民が111名亡くなった。変電所に残る弾痕の多くは、2回目の空襲によるものだという。
1回目の空襲は、同年3月の東京大空襲より前の出来事だった。このとき犠牲になった方の多くは工場内の防空壕の中で、爆撃による砂埃などによる窒息で亡くなったという。工場が空襲で爆撃された際、防空壕の入口も同時に崩れ落ちた。当時の国の指示で、空襲があったとしても、工場生産を減らさないようにという目的で、すぐに作業に戻ることができる工場内に防空壕が作られていた。
3回の空襲により工場の8割が壊滅したが、変電所など一部の施設は倒壊を免れた。工場自体の操業継続は不能となったものの、変電所は終戦後も稼働し続け、1993年に新しい変電所と交代するまで操業を続けた。

著者が変電所を訪れた日は快晴で、自転車に乗った小学生や散歩する親子もいた。また公園内には野球場やテニスコートもあり、走りまわる子どもや、木陰にレジャーシートを敷いて会話を楽しむ人たちも見かけた。
旧変電所の施設案内ガイドに話を聞くと、空襲の犠牲者の中には、攻撃から逃げる途中、工場北側の林の中で銃撃を受けて亡くなった人々がおり、それには頭を撃ち抜かれた3歳の男の子が含まれていたという。工場自体ではなく、逃げる人、それも子どもまでもが犠牲になっている点から、攻撃側の非人道性が垣間見える。しかし、戦場で多くの人を殺した軍人が、全員普段から極悪非道な人間であったのかというと、そればかりではなかったという。ガイドの、「戦争では(人は)そうなってしまう」という言葉が印象的だった。
この旧変電所では、戦争や空襲の恐ろしさを通して平和の大切さを後世に伝え続けて行くため、建物の保存運動などの活動に取り組んできたという。では、残された戦争の遺跡を目にした私たちにできることは何なのか。これからまた新たな戦争が始まらないようにすること、それに尽きるのではないだろうか。
【施設情報】
戦災建造物 東大和市指定文化財 旧日立航空機変電所
所在地 東京都東大和市桜ヶ丘2-106-2 東京都立東大和南公園内
https://www.city.higashiyamato.lg.jp/bunkasports/museum/1006099/1006102.html
TEL:042-562-1498
公開時間:10:30~16:00(水曜日・日曜日)
入場無料
冒頭の写真:旧日立航空機立川工場変電所(外観)