日本・トルコ友好125周年に寄せて

日本・トルコ友好125周年を記念して制作された映画『海難1890』が、今月初めから全国公開されている。125年前の1890年に実際に起きたエルトゥールル号遭難事件と、1985年のテヘラン在留邦人救出事件という二つの史実を基にしたストーリーだ。日本とトルコ、両国の間にどんな歴史があったのかご存知だろうか。

1887年に皇族の小松宮親王が欧州訪問の帰途イスタンブールを公式訪問し、オスマン帝国(現在のトルコ)皇帝アブデュル・ハミト2世に謁見した。これに応えるため、1889年7月にオスマン帝国の使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号がイスタンブールから日本へ向けて出港した。1890年6月に横浜港へ到着し、明治天皇に謁見。同年9月16日、帰路についていたエルトゥールル号が現在の和歌山県串本町沖で台風のため座礁し、機関部が浸水して沈没。乗組員たちは嵐の海に投げ出され、587人の死者を出す海難事故となった。この事故に際し、地元住民たちは総出で救助に努め、人肌で温めて蘇生させ、非常時に備えて蓄えていたサツマイモや貴重なコメ、正月のお祝い用の二ワトリをも提供して生存者を介抱したという。その結果、69人が救出され、彼らは翌年1月に日本の巡洋艦で無事にイスタンブールに送り届けられた。この事件での日本の手厚い対応はトルコの歴史教科書にも掲載され、日本・トルコ友好の原点となった。串本町では今でも5年ごとに慰霊祭が行われている。

痛ましい海難事故から95年後、イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領は「48時間後にイラン上空を飛ぶすべての飛行機を無差別攻撃する」と宣言した。各国の航空会社は自国民を優先的に脱出させた。日本はテヘランへの就航便を持っていなかったため、次第に日本人が取り残されていった。当時の日本政府は自衛隊機を救援機として派遣することができず、民間機をチャーターしようにもイラン・イラク両国から安全を保証されない限り飛ばせずにいた。在イラン日本大使館員たちは在留邦人を脱出させるため、徹夜で各国の大使館や航空会社と交渉を続けた。在イラン日本大使だった野村豊さんは、同じ日にイランに着任してもっとも親しくしていた在イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセルさんを頼り、彼は本国に「日本人のためにトルコ航空の特別便を飛ばせないか」と電報を打ってくれた。同じころ、切羽詰まった状況を伊藤忠商事のテヘラン事務所が東京本社に伝え、本社からイスタンブール支店長だった森永堯さんに、「なんとかトルコのオザル首相へ日本人救出のため救援機を飛ばすよう依頼してもらえないか」との連絡が入る。無鉄砲な依頼であることは承知の上で、仲間を助けるため日頃から親しくしていたオザル首相に電話をかけて頼み込んだ。オザル首相は、日本人救援のためトルコ航空の特別便をもう1機追加派遣することを決断した。18日の夕方、ビルセル大使から「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」と電話が野村大使にあり、大使館員たちは19日の明け方まで手分けして、各地に避難していた日本人の居場所を探し、希望を募って回った。こうして空港に集まった215人の日本人は、2機に分乗して無差別攻撃開始の2時間前にトルコ領空へと脱出できた。一方、テヘランに滞在していた600人を超えるトルコ人で搭乗したのは100人ほどだけで、残る500人近くは数日かけて陸路を車で脱出した。緊急時に日本人の搭乗を優先したことについて、トルコ国内では非難も出なかったという。

なお、1999年に発生したトルコ大地震では日本から緊急援助隊が派遣され、テヘランから救出された方も義援金を募って寄付した。2011年の東日本大震災ではトルコからの救助隊が約3週間もの長期にわたって活動した。善意の連鎖は今も続いている。

画像提供:串本町(和歌山県)

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