
東洋一の航空機エンジン工場から生まれ変わった、武蔵野中央公園
住みたい街ランキング上位常連の吉祥寺を抱え、井の頭公園や玉川上水、遊歩道が整備されている東京都武蔵野市。この武蔵野市の北部にあるのが、武蔵野中央公園だ。公園の中心には広大な芝生の原っぱ広場があり、スポーツ広場やテニスコート、子どもが遊べる遊具の設置もある。
ここにはかつて、東洋一と言われた航空機エンジン工場、中島飛行機武蔵製作所があった。中島飛行機武蔵製作所は、旧日本軍の戦闘機として知られる「零戦」や「隼」などのエンジンを製造していた。東京ドーム14個分の敷地の中で、最大4万5000人〜5万人が勤務していたとされ、近隣の学生たちも数千人動員されたという。「一機でも多く、戦地に」の掛け声のもと、2交代あるいは3交代制による24時間体制の操業だった。
旧日本陸軍は1922年に立川飛行場をつくり、あわせて戦地に飛行機を補給する施設「陸軍航空廠」も設置した。そのため、航空関連の会社や工場が立川を中心に多摩地区に集まった。中でも中島飛行機武蔵製作所は最大規模の工場だった。
太平洋戦争末期の1944年6月、アメリカ軍がマリアナ諸島サイパン島を占領すると、そこからB-29爆撃機が直接日本本土に飛来して空襲が始まった。そして最初の爆撃目標地点となったのが、中島飛行機武蔵製作所だった。
1944年11月から終戦までの約9カ月間、多摩地区だけで40回以上の空襲があり、その中でも中島飛行機武蔵製作所は合計9回の空襲を受けた。工場内で200名以上、工場近隣で数百名の市民が犠牲となった。
終戦間際の1945年7月末以降は、原爆の投下訓練とデータ収集の目的で、日本全国50カ所に原爆模擬爆弾(パンプキン爆弾)が投下された。原爆模擬爆弾とは、長崎原爆型と同じ形の爆弾に通常の弾薬を充填したもの。そのうちの一発が中島飛行機武蔵製作所に投下されたが、実際は目標をはずれて現在の西東京市柳沢に落下し、市民が犠牲となった。
終戦後、中島飛行機武蔵製作所跡地にはアメリカ軍立川基地のための住宅があったが、1973年に日本に返還、集合住宅や市役所へと姿を変えた。
跡地の一部を利用した武蔵野中央公園は、戦争の影響を感じさせるものがない原っぱ広場を中心に、1989年に開園。今となっては東洋一の軍需工場の面影はなく、公園の片隅に空襲の際の爆撃標準点と説明のパネル、工場地下道の一部が展示されている。戦後80年の夏、軍需工場ではなく緑豊かな公園を残した市民の意志と、時代の変化を、公園の片隅で考える時間があっても良いのではないだろうか。

【施設情報】
武蔵野中央公園
武蔵野市八幡町2-4-22
TEL:0422-54-1884
常時開園/入場無料
(冒頭の写真は、公園内にある爆撃標準点)