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日本人宇宙飛行士の平成30年史

宇宙へ飛び立つ日本人 宇宙飛行士誕生の平成30年史

特集 平成はこんな時代だった

航空宇宙工学の分野において、日本は世界レベルの技術力を有しており、これまでロケットや人工衛星の開発に取り組んできた。しかし有人宇宙飛行においては立ち遅れており、いまだに海外に頼り続けているのが現状だ。日本人の宇宙飛行士による、初の有人宇宙飛行が実現したのは平成に入ってからのこと。この30年の、日本人宇宙飛行士の歴史を振り返ってみたい。
 

TBS記者が日本人として初めて宇宙へ

1985年(昭和60年)8月、当時の宇宙開発事業団(NASDA)はペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者:PS)として毛利まもる氏、向井千秋氏、土井隆雄氏の3人を宇宙飛行士として選出、米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトルで宇宙に行くための訓練が開始された。しかしその翌年の86年、スペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故が発生。これによって、予定されていた日本人宇宙飛行士3氏のフライトは延期となった。

89年(平成元年)にTBSがソビエト連邦宇宙総局(当時)と宇宙ステーション・ミールへの訪問に関する協定を締結。TBS社内の応募者の中から、秋山豊寛とよひろ氏と菊地涼子氏の2人が宇宙飛行士候補に選ばれ、モスクワ郊外で訓練を受けた。秋山氏は90年(平成2年)12月に旧ソビエト連邦から宇宙飛行士の承認を受け、その翌日にバイコヌール宇宙基地からソユーズTM-11に搭乗、日本人として初めて宇宙に行った宇宙飛行士となった。彼はTBSリポーターとして宇宙の日常を生中継し、これが世界初の商業宇宙飛行ともなった。

一方、NASAで訓練を受けていた毛利衛氏は、92年(平成4年)9月にスペースシャトル「エンデバー号」にPSとして搭乗、日本人で2人目の宇宙飛行士となった。これに次いで向井千秋氏は94年(平成6年)7月、スペースシャトル「コロンビア号」にPSとして搭乗、アジア初の女性宇宙飛行士となった。
 

日本人宇宙飛行士にも活躍の場広がる

NASAは当初、スペースシャトルの運用や船外活動も可能なミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者:MS)の資格を米国籍に限っていたが、この制限が解除されて若田光一氏が92年8月から訓練を受け始め、日本人MS第一号として96年(平成8年)1月に国際宇宙ステーション(ISS)でロボットアームによる衛星捕獲を行った。95年(平成7年)3月からMSの訓練に取り組んだ土井隆雄氏は、97年(平成9年)11月に日本人として初めて船外活動を行った。

2003年(平成15年)10月に宇宙科学研究所(ISAS)、航空宇宙技術研究所(NAL)、宇宙開発事業団(NASDA)という日本の航空宇宙3機関が統合され、現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA)が設立。これにより、NASDAで進められてきた宇宙飛行士計画がJAXAに引き継がれた。しかし同年に、スペースシャトル「コロンビア号」の空中分解事故が発生。この影響で、スペースシャトルの飛行計画はしばらく凍結されることになった。

2008年(平成20年)に、JAXAが設計してきた日本の宇宙実験棟「きぼう」モジュールがISS(国際宇宙ステーション)に打ち上げられ、その都度、日本人宇宙飛行士がシャトルに同乗もしくはISSに滞在して作業するようになった。2009年(平成21年)にはソユーズに野口聡一氏が副操縦士として乗船。これは日本人の宇宙飛行士として初めて、宇宙船の操縦に携わったケースとなった。

平成の約30年間、実際に宇宙飛行をした日本人宇宙飛行士の数は合計12人に上る。そして今、平成が終わり元号が切り替わる、新たな時代の幕開けを目前にしている。昨年9月には、米国のスペースX社が2023年以降に計画している民間の月旅行で、最初の搭乗客が日本の通販サイトZOZOTOWNの前澤友作社長であることを明らかにした。これが実現すれば、人類が月を訪れるのは1972年のアポロ17号以来となる。新しい時代、宇宙が私たちにより一層身近なものになっていくことだろう。

(写真はイメージ)