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山中坂地蔵堂 平凡な町の外れで起きた防空壕での悲劇

複数の路線が交わるJR立川駅。駅周辺は、平日でも人通りが多いが、同じ市内でも中心地から離れると閑静な住宅街が立ち並び、自然があふれる。多摩都市モノレール線 柴崎体育館駅を降りて住宅街を過ぎると、根川緑道として整備された緑道がある。晴れた平日の日中、緑道を歩く人はまばらで、川に浮かぶ鴨の数の方が多く感じた。

坂道を登り、また下りもしながら緑道や住宅街を抜けると、残堀川沿いの遊歩道にぶつかる。川を左手に、反対側には崖があり、川と崖の間の遊歩道を歩き続ける。崖の上には住宅が建ち並ぶ。人が歩いている姿が見えたのと同時に、崖の上へ向かう道が見える。車がすれ違うには狭い道の途中に、山中坂地蔵堂がある。

第一次世界大戦ののち、飛行機の重要性が認められ、立川に飛行場が作られることとなった。旧日本陸軍の基地として発足し、1929年には大阪と立川を結ぶ、日本初の定期航空も始まった。立川飛行場を中心に軍需工場が集中していた「軍都」立川は、1945216日以降、何度も空襲を受ける。同年310日の東京大空襲や、同年82日の近隣市 八王子大空襲より早い時期から空襲が始まった。

山中坂には崖を利用した防空壕が掘られていた。もともと市役所の重要書類を避難させるために掘られたものだったが、使用されなくなったために住民が防空壕として利用していた場所だ。194544日未明、空襲に見舞われる中、人々はこの壕へ避難していたが、B29が落とした250キロ爆弾が壕の入口付近に命中したという。中にいた全員42名が犠牲になり、子どもが32人含まれていた。これが山中坂の悲劇と呼ばれる出来事だ。

現在の防空壕跡地には、遺族の方たちによって戦災供養地蔵尊が建てられている。山中坂地蔵堂に向かう途中、楽しそうに話をしながら歩く住人と思われる人たちとすれ違った。防空壕の中で亡くなった人たちも、同じようにこの坂道をおしゃべりしながら歩いたのだろうか。当時の光景を想像しながら、のどかな景色の中を歩いた。

【施設情報】
山中坂地蔵堂
東京都立川市富士見町4-22-19