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東京都戦没者霊苑 慰霊の地が伝える都心に存在した軍用地の記憶

東京・後楽園といえば、東京ドームや商業施設をはじめ、小石川後楽園、オフィスビルや大学、マンションもあり、さまざまな人々でにぎわうエリアだ。後楽園駅のすぐ北側にある礫川(れきせん) 公園は、池や花壇があり、ベンチで休んだり、子どもたちが遊んだりできる憩いの場だ。この礫川公園の階段を上ったところに、ひっそりと東京都戦没者霊苑はある。

霊苑という名称だが、墓地ではなく慰霊のための施設だ。明治初期から大正後期までは軍用地として使用され、戦後は東京都関係の戦没者約16万人を慰霊する場所となった。霊苑内は広く、緑に囲まれ、道路や東京ドームが近いにも関わらず静かな空間だ。敷地内には、遺品展示室も併設している。普段の暮らしのすぐ傍らに、都心に存在した軍用地の歴史を現在に伝える空間がある。

軍用地としての後楽園の歴史

現在の霊苑がある場所は、かつて水戸藩の広大な敷地の一部だった。後の1869年に陸軍砲兵工廠(こうしょう) と諸工伝習所(のちの小石川陸軍工科学校)が設置されたが、1923年の関東大震災で被災。陸軍砲兵工廠は福岡県小倉へ、諸工伝習所は神奈川県相模原市への移転が決定し、広大な軍用地は空き地になった。

移転後の小倉には大規模な軍事工場が完成し、米軍からは重要な攻撃対象とみなされることになる。8月9日の原子爆弾投下場所の第一目標は小倉だったが、小倉上空の視界不良により、目標が長崎に変更となった話が知られている。また、相模原はこの移転をきっかけに軍都として発展していく。戦後、施設の多くは米軍に接収され、現在も米軍基地がある。関東大震災による移転は、移転先都市の将来を塗り替える出来事となった。

戦争の時代を経て、戦没者霊苑へ

一方で関東大震災の後、工場の跡地は球場と遊園地に分割された。

1937年に日中戦争が始まると、戦没者が急増。東京でも「国のために命をかけた」兵士たちを英雄としてまつり、戦意を高揚させるための象徴として、学校跡地にモニュメント(忠霊塔)の建設を計画した。しかし、1941年に太平洋戦争が始まると戦況は悪化し、忠霊塔建設は頓挫したまま終戦を迎えた。

戦意高揚を目的とし忠霊塔が建設される予定だった学校跡地は戦後、「戦争の犠牲者を悼み、二度と戦争を繰り返さない」という平和への願いを込めた、戦没者霊苑として整備されることになった。

街の風景に残る、戦争と軍用地の記憶

現在小石川後楽園として公開されている水戸藩上屋敷の跡地内には、東京砲兵工廠の敷地の輪郭をかたどった石碑が残る。東京ドームホテルの工事の際には、東京砲兵工廠の建設時に製造された基礎レンガの塊が出土し、現在も東京ドームと東京ドームホテルの間の地上1階部分に展示されている。

しかしこうした痕跡も、その背景を知らなければ、何気なく目にするだけで終わってしまう。街の中には、激動の時代を生きた人々の記憶が、今もさまざまな形で残っている。普段何気なく目にしている景色の中に残された戦争の記憶にも、少しだけ目を向けてみてはいかがだろうか。

東京ドームと東京ドームホテルの間に置かれた巨大なレンガの塊