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知覧特攻平和会館 現代を生きる私たちに語りかけるもの

知覧特攻平和会館 現代を生きる私たちに語りかけるもの

2018年8月、終戦から73回目の終戦記念日を迎えた。これに先立ち、6月に鹿児島県の知覧を初めて訪れた。知覧は第2次大戦末期、陸軍特別攻撃隊(以下、特攻隊)の基地があった場所だ。その場所に残る「知覧特攻平和会館」で、痛ましい戦争の記憶をたどった。

知覧特攻平和会館、特攻隊出撃の地

鹿児島空港から鹿児島中央駅までバスで約50分、さらに駅からバスで約1時間20分。鹿児島県の南端に、「知覧特攻平和会館」はある。この場所を訪れた6月は、絶えず雨が降っている一日だった。「カミカゼ」の名前で知られる特攻隊の戦闘手段は、敵の軍艦に飛行機の機体ごと体当たりするという「自爆テロ」に当たる。敗色濃厚となった第二次大戦末期、日本軍ではこのような狂気の沙汰としか思えない戦闘手段が用いられた。しかもそれによって命を落とした特攻隊員のほとんどが10~20代の若者だったという。当時の様子を伝える貴重な資料館となっている知覧特攻平和会館は、まさに特攻隊が飛び立った基地の跡地にある。この場所から、九州をはじめ東京や台湾など各地から集められた若者たちが航空特攻として出撃していった。

出撃直前の笑顔の若者たち

知覧特攻平和会館が他の戦争資料館と大きく異なる点は、けが人や遺体、破壊された町など、肉眼で見られるダメージを負ったものの展示が一切ないことだった。展示資料は遺書、遺影、遺品などだ。

展示物の中でひときわ目に止まったのが、「ほがらか隊」と呼ばれた青年たちの写真だった。17~18歳の少年5人が、出撃直前に楽しそうに犬と遊んでいる様子が写された写真だ。その様子は、今でいうふつうの高校生の男の子たちだ。彼らはこの後全員出撃し、亡くなっている。「国を守るため」という大義名分のもとに日本は当時、まだ10代の若者さえも死に追い立てた。まだあどけなさの残る笑顔が、その数時間後にはこの世から消えた。その不在感の痛ましさが、たった1枚の写真から胸に迫ってきた。

ふつうの若者たちが書いた遺書

展示物の大部分を占めているのは、特攻隊で亡くなった若者たちの遺書だった。端正な文字で、丁寧な日本語で書かれた遺書があり、そこには育ててくれた両親や大切な兄弟に向けた、感謝の言葉と別れのあいさつがつづられていた。家族に向けた最後の手紙である遺書でさえ検閲があったため、本心をすべて書くことはできなかったと聞いたが、誠実さや育ちの良さを感じさせる遺書を見ていて、まだ20歳前後の若者だった彼らがなぜ死ななければならなかったのか、悲しみを通り越した憤りを感じずにはいられなかった。

一方で、別の展示室にはとても字が汚い遺書も並んでいた。それらの遺書を見たとき、特攻隊員には品行方正な若者もいれば、ごくふつうのやんちゃな若者もいたのだと親近感を感じた。

現代を生きる私たちが知覧から学ぶこと

筆者はこれまで、さまざまな戦争の史跡に足を運んできたが、知覧では本当に展示を見るのが辛くなるほどの心の痛みを感じた。ごくふつうの若者たちを、理不尽に死に駆り立てた戦争という狂気が、遺書と遺影、遺品だけの簡素な展示を通して、あまりにもリアルに感じられた。そして自分の家族のことを思い出さずにはいられなかった。この特攻隊員の若者たちと同世代だった筆者の祖父は、当時20歳前後で徴兵されたが、戦地から生きて帰ってくることができた。しかし祖父はその後、復員から70年経って亡くなるまで、夜な夜な戦地の夢を見てはうなされると言っていた。そのことを思い出すたびに、戦争が一人の人間の人生に及ぼす傷の大きさを感じずにはいられない。そしてそれでも、祖父が生きて帰ってきたからこそ私自身がここに存在していることの意味を思った。

10~20代で、まだ本当の人生を享受する前に、国家によって死に追い立てられた特攻隊員の若者たち。あまりにも痛ましく、あまりにも悲しいその経緯を知り、そのことを私たちが忘れずに生きて行くことで、彼らが生きられなかった人生を貴く生き、そして二度とそのような悲劇を繰り返さない世界を作りたいと思った。
知覧特攻平和会館 現代を生きる私たちに語りかけるもの