
能楽師・桜間右陣氏による「富士見舞台」の特別な能鑑賞体験【後編】
東京都飯田橋の路地裏に残る能舞台「富士見舞台」。そこは、シテ方金春流の名門・桜間家が何代にもわたり伝統を受け継いできた神聖な場所だ。この舞台で21代当主・桜間右陣氏を案内役に開催された能鑑賞会。濃密な歴史講義や能装束の紹介、桜間氏の「舞」を通して無形伝承の神髄に触れた、特別な時間の模様をレポートする。
岩倉具視の直感、細川家の木――灰燼 から芸を救った絆
明治維新によって幕府や大名家が消滅した際、能楽師たちは全員失職するという最大の壊滅危機を迎える。食べていけずに廃業する者が相次ぎ、伝統は途絶える寸前まで追い込まれた。
この絶体絶命のピンチを救ったのが、岩倉具視だった。明治4年、不平等条約改正のために欧米を視察していた岩倉使節団は、現地のオペラハウスでオペラを鑑賞する。そのとき岩倉は、「待てよ、これは日本の猿楽(能)と同じではないか」と直感したのだ。欧米諸国が自国の芸術文化を国家の誇りとして大切に扱っている姿を見て、「近代国家として日本が世界に誇るべき高尚な芸術は、あの能楽だ」と再認識した。帰国後、外交官や海外の要人を接待するための「式楽」として、能楽は見事に奇跡の復活を果たした。
しかし、続く1923年の関東大震災では、東京に集中していた多くの能舞台や、何百年も受け継がれてきた貴重な能面・能装束が焼き尽くされた。当時の能楽師たちは、火災が迫る中、布団を広げてそこに家宝の能面などの引き出しをごそっとひっくり返して包んで逃げたという。
そして、この場所にあった「富士見能舞台」もまた、震災の炎に包まれ、すべてを失った。絶望の底にあった桜間家を救ったのは、かつての主君である細川家だった。江戸時代から続く深い絆によって、細川家から大変貴重な「木材」が譲り受けられ、舞台が作られたのだという。この檜の床板には、単なる復興の記録ではなく、芸を尊び、伝統を守ろうとした人々の熱い想いが染み込んでいる。
しかし、試練はそれだけでは終わらない。続く第二次世界大戦の空襲でも甚大な被害が出た。道具や舞台が失われただけでなく、次世代を担う若き能楽師や、舞台を支える重要な専門職(ワキ方など)の演者たちが戦場に召集され、多くが帰らぬ人となった。
能楽は、楽譜や台本といった文字ではなく、師匠から弟子へと「身体を通じて、口伝と体得で伝える」無形伝承である。だからこそ、人間の命が失われる天災や戦争は、伝承の断絶に直結する取り返しのつかない傷跡となった。

静寂に響く足拍子――富士見舞台で舞われた仕舞
歴史講義の後は、右陣氏より何百年も続く能面や能装束が紹介された。
そして、右陣氏による仕舞 、『草紙洗小町 』が披露された。仕舞とは、面や装束をつけず、紋付袴姿で、囃子(楽器)の代わりに地謡(唄)のみをバックに舞う、能の演目のハイライトである。
一瞬にして富士見舞台の空気が張り詰める。右陣氏がすっと足を踏み出すと、細川家から贈られた古い檜板が心地よく、しかし重厚に鳴り響く。舞台に轟く声、演者の鋭い眼差し、扇を少し動かすだけで目がそこに引き付けられ、総合舞台芸術としての歴史の重みをひしひしと感じる。
『草紙洗小町』は、宮廷での陰謀に、知略で勝つ小野小町の逆転劇だ。歌合でライバルの大伴黒主が小町の新作歌を盗み聞きし、万葉集の古書に書き込んで「盗作だ」と嵌める。絶体絶命の小町だが、偽装を見抜き、その古書を水で洗い溶けて消えるのを見せて、小町の無実が証明される。小町は悪事を働いた黒主を許し、宮廷中が再び歓喜に包まれるなか、小野小町が華やかに舞い納める。
鑑賞会では、小町の最後の舞が披露された。扇を広げてめでたいと踊る姿に、悪を許して平和な宮中を取り戻した、小町の強さと優雅さが感じられる。

鑑賞会の終盤、「私たちは実際に能を観るとき、どのような視線で舞台と向き合えばよいのか」という問いに対し、右陣氏は穏やかにこう語ってくれた。
「皆さん、どうしても『お話の筋書き』を考えることに頭を悩ませてしまいがちです。けれど、能を見るときは、それよりも、目の前で繰り広げられる『舞』そのものや、ただそこに在る演者の『佇まい』を、五感でそのまま楽しんでほしいです」
細川家から受け継いで激動の歴史を潜り抜けてきた富士見舞台で、「体」に刻まれた全てを命がけで代々繋いできた、無形伝承の凄み。そこで体感した右陣氏の圧倒的な佇まいと、空間を震わせる重厚な舞の余韻は、私たちの心に深く、静かに染み渡っていった。

(取材後記) 創始者である観阿弥・世阿弥は、この芸が本当に数百年の時を超えることを想像していただろうか。伝統とは過去の遺物ではない。バトンを受け継ぐ一人一人の信念によって、今この瞬間も「花」を開かせ、新たな道を切り開き続ける生命体なのだ。その圧倒的な凄みは、理屈ではなく、舞を見た一瞬のなかに確かにある。ぜひ一度、空間へ足を運び、五感で味わってみてほしい。
参考:桜間右陣氏による「富士見舞台」の能鑑賞体験
取材協力:Otonami
能楽師・桜間右陣氏による「富士見舞台」の特別な能鑑賞体験【前編】

