[書評]『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』
理化学研究所は、物理・化学の基礎研究の推進により日本が欧米に対抗する力をつけていくことを目指し1917年に財団法人として設立された。ジアスターゼなどの発見で知られる高峰譲吉が産業界の重鎮である渋沢栄一へ提言したことが設立の契機となった。本書は医・科学ジャーナリストの宮田親平によって執筆され、1983年に出版された。1921年から1946年まで三代目所長として理研の発展を導いた造兵学者で貴族院議員の大河内正敏に特に焦点を当てて、理研の発足初期から敗戦後の再建までの歴史がつづられている。
理研設立時には物理部長には土星型原子模型を提唱した長岡半太郎、化学部長にはうまみ成分グルタミン酸ナトリウムの発見者である池田菊苗が就任するなど、当時の一流の科学者が集結した。しかし、不景気で予定していた産業界からの基金が集まらない。苦境を脱するために大河内は研究者に自由にどんどん研究を進めさせ、それを事業化して資金を賄うという方策を取る。その結果、鈴木梅太郎研から生まれたビタミンAやコハク酸による人造酒によって財政危機から脱することに成功。その後もアルマイトや陽画感光紙など各分野で続々と発明が生み出された。
経済的な危機を脱した理研では研究者たちによる個性的な研究が行われた。東北大の金属材料研究所にも在籍した本多光太郎は世界最強の磁石鋼と言われたKS磁石鋼を発明した。大河内と学生時代に一緒に弾道実験をしたこともある寺田寅彦は気象学や地震学などの地球物理学を初めとする複雑系の物理学に力を注いだ。ドイツで量子力学を学んだ仁科芳雄は、理論グループでは後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎らを育て、その一方では原子核破壊のためのサイクロトロン(粒子加速器)の建設に取り組んだ。朝永は自分が学んだ仁科研究室を「科学者の自由な楽園」であったと回顧している。
太平洋戦争勃発後に理研産業団は戦時体制に組み入れられ、仁科はウラン爆弾研究の指令を受ける。技術的には可能でも時間的には到底無理であったが、研究者を戦場に駆り出されたくない思いもあり従った。そして1945年8月、仁科は破壊された広島、長崎を調査しそれを原子爆弾によるものだと断定した。
そして敗戦。仁科が心血注いだサイクロトロンは占領軍によって破壊されてしまう。大河内は公職追放となって所長を辞任し、理研自体も財閥解体の対象にされた。この危機的状況において四代目所長となった仁科は、ペニシリンとストレプトマイシンの商品化によって再建を成し遂げた。
大河内が率いた戦前の理研は、日本自体を実験場とした科学による国力増強実験の中核施設のようなものであった。戦争には敗れたものの、優秀な人材を輩出し日本の科学技術発展に貢献した。戦後の技術大国としての繁栄も理研が供給した人材なしには成されなかっただろう。理研設立目的にある「人口の稠密な、工業原料その他物質の少ないわが国においては、学問の力によって産業の発達を図り、国運の発展を期する外はない」との言葉は今もなお有効である。しかし、昨今の文教予算の低下や研究者の雇止めは理研だけでなく日本全体の深刻な問題である。日本の未来のために研究者が安心して力を発揮できる環境の整備と学問に対する十分な予算の確保が望まれる。
『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』
著者:宮田親平
発行日:1983年7月15日
発行:文藝春秋
(写真はイメージ)
【書評】科学者の随筆・評伝