[書評]岡潔『数学を志す人に』 調和と情緒を重んじた数学者による文明論
岡潔(1901-1978)は日本の数学者で、多変数函数論の分野で世界的な難問を解決するという業績を残した。また、日本的な情緒の大切さを訴え続けた随筆家としても知られている。本書は2015年、日本の科学随筆を紹介する平凡社のSTANDARD BOOKSの一冊として刊行された。タイトルにあるように、数学に関心がある人だけではなく一般向けの書籍となっている。
岡は、フランスの数学者ポアンカレ―の言葉「数学の本体は調和の精神である」を引用して、数学の調和は美の調和と似ているが真の中における調和であると述べている。また、数学上の発見はある種の智力の元に行われ、それは極めて短時間で行われ強い確信を伴うとしている。そのような強い智力を養うためには、脳をただ鍛えるだけでなく、日本刀の鍛錬のように熱しては冷やしを繰り返すのが良い。第二次世界大戦の終結まで50年間戦争ばかり続けてきた原因を、調和の精神なしに科学を発達させたからであるとし、数学は闇夜を照らす光であるからこういう世相でこそ大いに必要なものだという。
心の働きを「知」、「意」、「情」に分けると、後者になるほど深く身体全体に影響を与える。数学を知的にやる、あるいは意志的にやる人はいるが、情緒的にやるところまではなかなかいかない。起きている時にだけやるものではなく、無意識の間にも準備されてできていたものを呼び出すのは情緒の働きだ。だから頭だけを発育させるのではなく、情緒の中心を人らしく調和させなければならない。
岡は奈良女子大学などで講師をしていたこともあるために教育にも関心が深く、戦後の教育が知を重んじて大脳の発育ばかりを中心にして、思いやりや情緒を養う教育が不足しているのではないかと、しきり不安を投げかけている。また、調和と情緒に着目した観点から文明論や人間論も語っているが、東西の書籍を多数引用して持論を組み立てるその語り口には独特なものがある。特に岡が語る日本的情緒の良さは、大自然から純粋直感を得ることによって情緒をきれいにして、私意私情を抜いて社会の下積みになることを厭わないということであり、敗戦後の人々の心に響いたことであろう。
数学者が調和を重んじ、また難問を解決したときの心境に思いを巡らすのは当然のことだが、ここから文明論まで行き着くのが実に面白い。深い教養に裏打ちされた論旨によって、軍国主義ではない古き良き日本を思い起こさせる。
コロナ禍での閉塞感や経済的な停滞など不透明な情勢が続く昨今、日本的情緒に立ち返ることで日本人の民族的な特性を見つめ直し、いっそう磨いていくことが必要ではないかと思う。岡潔の随筆は、そうしたことの手掛かりを与えてくれるのではないだろうか。
著者:岡潔
発行日:2015年12月11日
発行:平凡社
(冒頭の写真はイメージ)
【書評】科学者の随筆・評伝