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[書評]米沢富美子『猿橋勝子という生き方』 直向きさが切り拓いた科学の道

猿橋勝子(1920-2007)は、海洋放射能の研究で知られる地球化学者だ。戦前戦後の女性が理系の道を選ぶこと自体が困難な時代に世界的な業績を残し、後進育成のために女性科学者を顕彰する「猿橋賞」を創設したことで知られる。本書は猿橋氏の評伝で、著者の米沢富美子氏も同賞を受賞した物理学者である。

研究で世界的業績をあげた女性科学者

猿橋は東京都で電気技師の一男一女の一人娘として生まれた。兄との年齢差は9歳である。1937年に第六高等女学校(現・三田高校)卒業。医師を志したがそれをなかなか両親に言い出せずにいた。当時は女性の大学進学は限定的で、最高学府は医専や理専などの専門学校だった。1941年、東京女子医専に合格したが、面接試験で憧れであった校長に幻滅して入学を辞退。新設の帝国女子理専(現・東邦大学理学部)に進学する。そこで中央気象台研究部長の三宅泰雄に出会い、生涯の師と仰ぐことになる。

1944年、猿橋は三宅研究室に嘱託として就職し、飛行場の霧の消散の研究に従事した。過酷な野外観測でも熱心に取り組み、1947年に正規の研究官に昇格。海水中の炭酸物質に着目し、自ら分析装置を考案。微量分析の第一人者となったことが、後の重大な研究につながる。

1954年、遠洋漁業船の第五福竜丸がビキニ環礁で水爆実験によって被爆。乗組員が証拠品として持ち帰った「白い灰」の分析が猿橋に依頼され、その正体がサンゴの粉末であることを解明した。これが手掛かりになって米国が秘密にしていた核爆弾の構造がかなりのところまで明らかになった。

三宅研究室で日本近海の海水中の放射性物質を測定するようになり、米国近海よりも10倍以上高い値が出た。これを三宅-猿橋は海流の流れによる滞留と説明したが、米国側は測定の誤りだと非難した。その決着をつけるために日米両国の放射性物質測定の相互検証をすることになった。1962年、猿橋は単身渡米して分析化学の世界的権威相手に日本側の測定の正確さを証明した。

後進の育成と地位向上に情熱を注ぐ

その後、女性科学者として平和運動に尽力。1980年には女性として初めて日本学術会議会員に選出された。この時にまた「猿橋賞」を制定し、女性科学者が活動しやすい環境を整えた。

著者は猿橋を直向ひたむきな人だったと回顧する。生きることに、科学に、自分の哲学に直向きで、声高に主張することよりも成果を上げ実績を積むことで認めさせる姿勢を貫いた。科学者こそが科学の功と罪を語るべきだと平和運動にも邁進し、また後進を励ますことに力を尽くした。生涯独身だったのは、研究への没頭と、戦争による同年代男性層の欠落という時代背景によるものだと著者は推察する。

本書が描く「猿橋勝子という生き方」は、研究を通して人と社会に貢献することとはどういうことかを示す一つの模範である。逆境の時代に道を切り拓き、後進に光を灯し続けたその姿は、今なお私たちに確かな勇気と指針を与えてくれる。

『猿橋勝子という生き方』
著者:米沢富美子
発行日:2009年4月7日
発行:岩波書店

(写真はイメージ)

<参考記事>