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独学で異形の業績を残した『南方熊楠 梟のごとく黙坐しおる』

植物学や民俗学などに大きな足跡を残した南方みなかた熊楠くまぐす(1867-1941)。比較的近年に書かれた手ごろな評伝として本書を手に取った。入門書としては適切で、引用も多いため興味が惹かれたことについて更に追究する手引きにもなる。著者の飯倉照平は中国文学者で、平凡社版全集の校訂者だ。

熊楠は1867年、和歌山市の商家に生まれた。特異な名前は、熊野権現ゆかりの楠神社から受けた。小学生のころから江戸時代の図鑑『訓蒙図彙』を愛読。さらに伝手を頼ってさまざまな図鑑の筆写を繰り返した。中学卒業後、上京して東京大学予備門(現・東京大学教養学部)などで学ぶが、試験の落第とともに癲癇を発症して1886年に一旦帰郷。同年、父を説得して渡米した。米国ではミシガン州立農学校に入学したが、翌年退学。以後は独学で研究を進めていく。フロリダやキューバ島で植物採集を敢行し、地衣類の新種を発見した。

1892年に渡英。大英博物館に出入りしながら、『ネイチャー』に「東洋の星座」など、東洋の文献における科学を紹介する論文を多数投稿した。またこの頃、革命家の孫文や、後に高野山管長となる土宜どき法龍ほうりゅうと親交を結ぶ。その後、大英博物館の閲覧室で暴力事件を起こして出入り禁止になり、さらに父の死去で家業を継いだ弟からの送金打ち切りもあり、1900年に帰国した。

和歌山に戻り、最終的に田辺に落ち着いた。各所から教授として迎えたいとの申し出もあったが皆断ったのは、自分には務まらないと思ったからではないかとのこと。植物採集の傍ら、知友や学術誌、地元新聞などにさまざまな文章を書き送った。後年「南方マンダラ」と呼ばれるようになった思想は、土宜法龍との書簡で紡ぎ出された。また、柳田国男との文通は、日本に民俗学という学問を誕生させる契機になった。中華民国成立後に初めて日本を公式訪問した孫文の歓迎会には出向かず、「何もできずふくろうのごとく黙坐しおる」と記した。一方で、神社を合祀して整理統合し外された森を伐採するという政府の政策には、徹底した抵抗運動を繰り広げた。

研究の中で特に心血を注いだのが粘菌だ。粘菌は菌類でありながら、その生活史の中で不定形粘液状の変形体となってアメーバのような行動を示す。自宅の庭木からも新属新種の粘菌を発見し、粘菌だけで6000点余りの標本を残した。1929年には、生物学者である昭和天皇に、田辺湾に停泊した戦艦「長門」上で進講を行っている。

熊楠の魅力は、彼の執心した粘菌のような境界を越えた捉えどころのない異形さにあると感じる。独学で東西に渡る膨大な知識を身に着けて、終身在野の立場を貫いたこと。植物学と民俗学など、分野にまたがって業績を残したこと。独自の思想を極めて、それを断片的でありながら膨大な文章として残したこと、などが挙げられる。思想を残すためには言語化することは極めて重要なことだ。

『南方熊楠 梟のごとく黙坐しおる』
著者:飯倉照平
発行日:2006年11月10日
発行:ミネルヴァ書房

(写真はイメージ)

【書評】科学者の随筆・評伝