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大阪城公園に残された「物言わぬ証人」たちと辿る戦争の記憶

近代以降、商業の街として発展してきた大阪。その中心にある大阪城は、かつて日本の戦争を支える一大拠点であり、それにより激しい空襲で甚大な被害を受けた場所だった。当時あった軍事施設の多くは今では跡地となり姿を消しているが、大阪城公園には当時の面影が今も残っている。そんな「物言わぬ証人」たちが語りかける戦争の記憶に耳を傾けながら、大阪城公園内を歩いてみた。

広大な兵器工場と度重なる空襲

明治維新の後大阪城内に創設された官営の兵器製造工場「大阪砲兵工廠こうしょう 」はアジア最大級の兵器工場にまで発展を遂げ、最も多い時でその従業員数は6万人強にのぼった。

1944年から1945年にかけ、大阪はアメリカ軍による50回を超える空襲に見舞われる。特に、B29 が100機以上に及ぶ「大空襲」は8回にわたり、多くの犠牲者を出した。さらに、終戦前日の8月14日にも大規模な空襲が行われ、大阪砲兵工廠はこの空襲によって壊滅状態となる。砲兵工廠および大阪の街は、廃墟と化したのである。

今に残る戦争の痕跡

戦後80年が経った今も、大阪城公園内には当時そこが砲兵工廠だった面影と、度重なる空襲の悲惨な状況を物語る痕跡がいくつも残っている。その一部を紹介していく。

砲兵工廠の石柱

京橋口の付近にはかつて砲兵工廠の表門があった。現在は左右の石組だけが残っているほか、傍らに「砲兵工廠」の文字が刻まれた石柱が残されている。

化学分析場跡

大正時代に建てられたネオ・ルネサンス風の建物。大阪砲兵工廠の数少ない遺構の一つで、兵器の研究・開発や化学実験が行われていたとされる。建物のそばには巨大な鉄の塊が残されており、砲兵工廠の溶鉱炉から取り出された鉄のかすと考えられている。

園路沿いに残された巨大な鉄の塊

掃討機銃の弾痕が残る石垣

天守閣の近くにある山里丸石垣には空襲時の掃討機銃の弾痕が生々しく残されており、当時の攻撃の激しさがわかる。

山里丸石垣に残された弾痕

1トン爆弾による天守台石垣の「ずれ」

天守閣を支える天守台の石垣にも当時の爆撃の跡が残る。北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」は天守閣の近くに落ちた1トン爆弾によるものとされる。現在の天守閣は1931年(昭和6年)に再建されたもので構造上石垣の「ずれ」による影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行をとめるための工事が行われている。

複合施設「ミライザ大阪城」

1931年に旧陸軍第四師団司令部庁舎として建設されたロマネスク様式の建物で、戦後は大阪市立博物館として利用されていた。現在は複合施設「ミライザ大阪城」として活用されている。

傷痍軍人とその妻の碑

戦場で負傷した傷痍軍人とその妻たちが平和への願いを込めて建てたとされる碑。

当時の状況を後世に伝え、平和への願いを伝える場所

大阪城公園の敷地内にある「ピースおおさか」(大阪国際平和センター)。ここでは、大阪空襲で焼き尽くされた当時の様子や、戦時下の人々の暮らし、体験者の証言などが展示されている。資料展示を通して当時の状況をよりリアルに感じることのできる場所だ。

歴史が交差する大阪城公園

大阪城公園は今日、国内外の観光客が訪れるほか、四季折々の花々を楽しむ市民の憩いの場、さらには大阪城ホールでのイベントを目当てに多くの若者が集まる活気ある場所となっている。しかし、この賑わいの裏には、かつて広大な兵器工場が存在し、激しい空襲によって多くの命が失われ、廃墟と化した悲しい歴史が秘められている。

今回の大阪城訪問をきっかけに、戦争は「どこか遠い場所」で起こった出来事ではなく、まさに今私たちが暮らしているこの土地で起こったのだという当たり前の事実に改めて気づかされた。戦後に生まれた世代が国内の人口の約9割にのぼり、ますます戦争の記憶が薄れていく今。「わたしが今いるこの場所」で起きた出来事と、そこで生きていた人々、苦痛の中で亡くなっていった人々に思いを馳せる体験となった。