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宗教改革500周年 ルターの軌跡をたどる 前編

宗教改革500周年 ルターの軌跡をたどる(前編)

「ルターシュタット(ルターの町)」という名称を冠するヴィッテンベルク。首都ベルリンから約100km離れたこの小さな町は今年、ヨーロッパ史のある記念すべき年を迎えて訪問客でにぎわっている。宗教改革500周年だ。

1517年10月31日、「免罪符」を発行したローマ・カトリック教会に抗議して、神学者マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95カ条の論題」を張り出したのが「改革」の始まりだったと言われている。宗教改革は、これを境に欧州が中世から近代へ転換したと言われる重要な出来事だった。ルターが残した軌跡と500年後のドイツの今をたどってみたい。


ヴィッテンベルク市庁舎前広場に立つルターの像
 

ルターの聖書ドイツ語訳はなぜ偉業だったのか?

鉄道でヴィッテンベルク駅に到着すると、駅周辺はきわめて殺風景で、何か見るべき街並みや景観がそこに広がっているわけではない。しかし市街方向に向けて歩き出すと、すぐに巨大な聖書のオブジェが目に付いた。500周年を記念して今年発売された、ルター訳聖書の改訂版。それを模した全長27メートルの巨大なレプリカだ。

ルターの功績のひとつと言われるのが聖書のドイツ語訳。16世紀当時の聖書は主にラテン語で書かれており、これはそのための勉強をした聖職者しか読めない特殊言語だった。一般庶民だけでなく、貴族階級や富裕な商人などにもラテン語は難解な言語で、ラテン語が読めないということは、つまり聖書に何が書いてあるのかを知らないということだった。ルターが行った聖書のドイツ語訳は、すなわち福音の民主化だったといえる。

時代も幸いした。ルターの登場に先駆ける1445年、グーテンベルクによって活版印刷が発明されており、この技術が翻訳聖書の普及を劇的に促進した。今でいうと、インターネットの発明に匹敵するほどの画期的な出来事だったのだ。


ヴィッテンベルク駅前に出現した、巨大な聖書のオブジェ
 

免罪符が象徴した「悔い改め」についての認識

ヴィッテンベルク市街の入り口近くに建つマルティン・ルター記念館。ここはルターが修道士として1508年に移り住み、その後、家庭を持ってからも35年間住み暮らした、ルターの人生における最も主要な時間を過ごした場所だ。記念館には、16世紀当時使われていた免罪符用の集金箱も展示されている。

当時免罪符は、バチカンのサン・ピエトロ寺院の修理費用工面のためという名目で、ローマ教皇レオ10世が発行したものだったが、これが欧州の中でも当時のドイツで最も広く販売された。その理由は、マグデブルク司教であったアルブレヒト枢機卿が、複数司教位を得るためにローマ教皇庁に莫大な寄付を行い、そのための借金返済を免罪符販売による収益金で賄おうと考えていたためだった。


ルター記念館に展示されている免罪符用の集金箱

ただしルターはこういった裏事情を知る以前に、免罪符を問題視していたという。それは、人々が罪をお金であがなうことで、告解こくかい(聖職者を通して罪を神に告白し、ゆるしを受ける行為)をしなくなることへの懸念だった。

「95カ条の論題」は以下のような一文で始まっている。「われらの主なるイエス・キリストは言う、悔い改めよ、天国は近づいた(マタイによる福音書4章17節)! 彼は、信者の全生涯が悔い改めであるべきことを望んだのである」。さらに36条にはこのようにつづられている。「真に悔い改めているならば、キリスト信者は、完全に罪と罰から救われており、その救いは免罪符なしに与えられるものだ」。

「95カ条の論題」は、悔い改めの定義を正す内容で貫かれている。

ルターの座右の銘であった聖句(聖書の一節)に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」(へブル人への手紙10章38節)という言葉がある。

当時、教会への寄進を善行として推奨し、「行いによって天国に行ける」とうたって金集めをした教会の腐敗体質を、ルターは問いただしたのだった。


ルターが「95か条の論題」を張り出したとされるヴィッテンベルク城教会内部

(冒頭の写真は、ルター訳による1534年版のドイツ語聖書)
 

参考記事
宗教改革500周年 ルターの軌跡をたどる(後編)(2017/10/31)