
[書評]『軍医・石井四郎』731部隊の実態に迫る
戦後80年が経ち、戦争の記憶の風化が進む中で、新たな記録が発見される例もある。5月には、中国・南京において人体実験などを行った、旧日本軍の細菌戦部隊の隊員名簿が公開された。今後、日本軍による細菌戦の一端が解明される可能性がある。
細菌戦部隊として最もよく知られるのが、「731部隊」だ。これは関東軍防疫給水部の通称で、第二次世界大戦中にハルビン郊外の平房で、生物兵器の研究・使用をした部隊だ。生物兵器とは、自然界にある病原菌・細菌・ウイルスを、敵を殺害するために兵器化したもの。化学物質を使用して敵を殺害する化学兵器とは異なり、接触しただけで死に至ることはなく、1週間以上の潜伏期間があることが特徴だ。部隊では、中国人捕虜をペスト菌やコレラ菌に感染させる人体実験や、生物兵器の実戦的使用が行われていたとされる。
731部隊は軍医の石井四郎を筆頭に、軍からの巨額の研究資金によって集められた科学者を中心とした1万数千人規模の部隊だったとされる。軍隊が大学に接近し、学会の権威たちを取り込み、彼らの弟子が軍医らと共同研究を実施した。研究体制は徹底的に分業され、731部隊の研究の全容を知る者はわずかしかいなかった。
終戦後アメリカは、石井とその指揮下にあった医師らに戦争犯罪での訴追からの免責を付与するのと引き換えに、研究成果を押収・隠蔽したとされる。対ソ戦略を見据えた米軍と、政治的取引が行われたのではないかと考えられる。
『軍医・石井四郎』は、アメリカの法学者であるケネス・L・ポートの著書『Deciphering the History of Japanese War Atrocities』の翻訳書だ。ポートは日本の法制度に精通したアメリカ人研究者の一人で、日本の商標法や知的財産制度について複数の論文や著書を執筆している。
一方、731部隊に関して生涯にわたり研究・調査を続け、多くの著作を執筆した人物に常石敬一がいる。常石の著書『731部隊全史』は主に歴史学に依拠し、加害の歴史記録を洗い出し戦争責任を追及しているのに対し、本書は法学や医史学に乗っ取り、軍という組織の中の石井を客観的・批判的に検証している。日本側の証言や裁判記録・報道をもとに検証した常石に対し、ポートは米軍の尋問記録や公文書館資料、英語の文献をもとにしており、米国人研究者として、日本の戦後責任や法制度を国際的な視点で検証した著書と言える。本書によれば、日本人・アメリカ人・中国人それぞれ、731部隊で行われたことを実際以上の悪だと信じさせたい人もいれば、許容され忘れられるようにしたい人もいるという。さまざまな権力構造や政治思想によって正確な検証が難しい中、日本軍による細菌戦の実態に迫る新たな資料だと言える。
戦争と科学技術、閉鎖的な組織体制、研究倫理など、現代社会にもさまざまな問いを投げかける一冊だ。
『軍医・石井四郎 731部隊「謎の男」の知られざる真実』
著者:ケネス・L・ポート
訳者:阿部海
発行日:2025年2月10日
発行:花伝社
画像提供:Wikipedia(731部隊ボイラー棟建物)